【古本屋のショートショート】海

1000キロもの沖合いで大きく成長した嵐は、

徐々にこの海岸にも近づいてきて

その重苦しく不気味な、鉛色の姿をさらしつつある。

不機嫌な雲が厚く垂れ込めて、ときどき大粒の雨がバチバチと

叩きつける日。強い岸からの風で、波は大きく鶏冠を立て、飛沫を飛ばしている。

止めておけばよかったと、心底後悔したそのときには、

俺 はすでに、波のブレイクする真っ只中にいた。

波はどんなに大きくても、ブレイクするまでは大人しい。

その上を、たやすく越えて行くことができる。

でも、ひとたび崩れると、そのめちゃくちゃなエネルギーの渦は、

下にいるものをミキサーのようにかき混ぜ、粉砕しようとする。

俺はドルフィンスルーで、波の下をくぐろうとする。

でもブレイクした波は、いつもよりもずっと深くまでその力を及ぼし、

抜けたと思ったおれを後ろから、思い切り引き摺り下ろそうとする。

お行儀の良いやり方でこれをやり過ごすのは無理だと悟った。

まともに巻かれたら、冗談ではなく、生きて帰れるか判らない。

?ここを抜けるには、ひたすらブレイクしない沖まで出るしかない。

鉛色の空と海の間で、一人で途方に暮れながら、次々に迫る危険を回避しようとする。

恥も外聞もなく、パワーコードの根元を握り、波のふところで体ごとダイブして、

洗濯機の中のような波に引き戻されながら、なんとか沖に出るチャンスを

じっと待つしかなかった。

自分の呼吸音。潜る時に知らずに発する気合。くぐもった、海の底の轟音。
いつか力尽きたら、巻かれるしかないのか?

思考なんかしている間はない。ひたすらに回避を繰り返す。

ボクシングの試合で、ダウンからなんとか起き上がったら、

またボディをもらった時のようだ。果てしない負け試合。

ゴングが待ち遠しい。

すると、ふと夢のように道が開けた。靄の先に、すっきりと沖が見える。

突然、海の上を渡る、強い風の音が聞こえた。

はらわたのなかをひっくり返された海が、

生臭い潮のにおいをさせているのに 、おれはやっと気づいた。

おれは歓喜した。すっかり萎縮していた筋肉に力がみなぎり、

強く水を掻いて、沖へと進んだ。ひとまず、大丈夫のようだ。

順調に5分ほどパドリングをすると、何かが、カンに触った。

もともと、沖に出るために有利な、リップカレントという

引き潮のある場所を選んでゲッティングアウトしているのだけれど

今、妙にフラットになった海面全体が、強く沖に引かれている感じだ。

様子を見ようと、ボードの上に跨ったとき、はるか沖にキラリと光が見えた。

それは軟体動物のように鈍く光って、うねって見える。

それがなんだかわかる前に、体が反応して、おれは沖に向かって再び、

パドリングを開始した。さっきまでのものよりも一段切迫したパドル。

今までに見たことのないような大波・・・・かもしれない・・・

そうでないことを祈る俺の、はるか沖で、すでに立派に波の形をとり始めた

そいつは、ゆらりと立ち上がり、さらにまた、育ち始めた。

 

「うわあぁああぁ・・・・!」

おれは腹の底から叫び、このタイムトライアルに挑んだ。

俺が間に合うか、ヤツがブレイクし、想像を絶するその力で

おれを八つ裂きにするか。

もう、疲れも、恐怖も感じない。ただパドリングする機械のように、

ひたすらに、全速力で沖にむかって漕ぐ。ヤツの成長を見守りながらだ。

ヤツは、爬虫類のようにぬめる肌を見せて、ひときは大きくそびえ立ちはじめた。

いったい、どれくらいまで大きくなるつもりだろう。

そしていつ、ブレイクし始めるつもりだろう。

うなじの毛がチリチリと逆立つ。背筋を大きく使い、パドリングを繰り返す。

「間に合え、間に合え、間に合え・・・」

するとついに、ヤツはその全貌を見せてそびえ立った。

デパートくらいあろうかと思えるほどに育ったヤツは、その裾野に腹ばいになり

もがく俺を睥睨した。その広大な裾野は野球場ほどもありそうだ。

その頂上、俺よりも数百メートル斜め横に離れた場所で、ついにそれは崩れ始めた。

その崩れ始めた一角は、スローモーションで横に幅を広げていく。

馬鹿馬鹿しいほどに盛り上がってしまった海の皺。

いま、それが自然の摂理にしたがって、崩れ始めただけだ。

ただ問題は、俺はその目前にいるということ。

 

そしてついに、おれの行き先も無くなった。

俺の沖合いの波はすべて崩れ、白い爆発に変貌した。

俺の沖合いでナイヤガラのように落ちた水は、むちゃくちゃなエネルギーを

発散しはじめる。放水し始めた ダムを下から見たら、こんな感じだろう。

地響きがする。ブレイクした白いスープは、電信柱ほどもある。

おれは何もできず、その下敷きになる瞬間を待つ。

コマ送りで近づく、轟音と、海水の雪崩。

おれは大きく息を吸うと、それに背を向けた。

次の瞬間、俺はヤツに撥ねられた。

肺の中の空気が一気に潰されて出て行った。

手も足も、あらぬ方向に持っていかれてしまった。

俺は真っ暗な海の底で、ほんの短い時間だけ、途方に暮れた。

こんなときに、これといって思い出す事もないんだな、と、気がついた。

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